MUGEプランニングのたまさかブログ

東海・中部地区で落語公演を開催しているオフィスのブログ

「小文吾の意地」~東西四派若手競演 雑感

満足感?充足感??達成感???
収支を全く考えない無謀な企画、若手競演が終わりました。
1階131のキャパに一週間前の予約が三分の一。
予想されていたこととはいえ、四人のモチベーションにかかわるから何とかもう少し動員しなければ…そう考え、ラストスパートをかける。

当日は、いつものように我が家の招き猫に「当日券10枚!」のお願いをして会場へ。いつもと違い土曜日の夜公演ということで、不安は尽きなかったのです。

それでも東京から雛菊、大阪から源太、鳥取から小文吾が続々会場入りし先に入っていた獅鉄とオープニングトークの打ち合わせをしていると、当日券のお客様が続々。
最終的には当日券16枚の好成績、招き猫に感謝!胸をなでおろしての開演、最初はオープニングトークと、くじ引き。一人だけが二席になります。

箱の中のボールは四つ。「4」「3」「2」「1&トリ」の玉を引き合うと芸協の春楽くんの代演で急きょ駆け付けた小文吾くんが「二席」の玉を引き当ててしまい、天を仰ぐ。

そでで待機していた私は、小文吾くんの焦り具合が手に取るように分かった。
大丈夫なのか…。とにかく鳥取での活動ということで高座数ではほかの三人よりも圧倒的に少ない彼、まして先月、文鹿師匠の会の助演で出た時にはお客様が気の毒がるほど滑りまくっていたので、よりによって代演の彼が…と心配する。

それでもお客様がオープニングトークでかなり温まっていたこともあり、次第に調子を上げていく。爆笑というほどではなかったけれど、うまくまとめて雛菊さんへ渡す。

後を受けた雛菊さん、とにかく不思議キャラ全開でお客様を自分のペースに引き込んでいく。女性芸人にお客様が何を求めているか、というのは我々プロモートする側にとっても永遠の課題なのだが、彼女は「女性芸人」というカテゴリでは測ってはいけない得体のしれないフラを持つ。たいこ腹、菊之丞師匠譲りの噺で獅鉄さんへ。

うって変わって新作ワールド。二席目の小文吾さんをおもんばかったのかかなりの長時間マクラを振り倒したあと、すっと場面はタクシーの中へ。ネタバレになるので詳しくはかけないが、ある意味落語の世界をかなり逸脱した感じのする新作で、中入り。

後半トップは源太くん。彼にはまちがいなく華があります。
テレビなどにも出演しているためか舞台度胸が半端じゃない。
紙入れの登場人物がものすごくリアルにうつり、しかもセリフもよどみなく。
昨年来ていただいたままの印象でいた私は、わずか半年でも成長に驚く。客席もとにかくドッカンドッカン受けていて、そででまた小文吾くんが「なんでこんなに受けてるんだ・・・」とまたため息。NHK決勝に行ったのはフロックじゃないんだなと、改めて感じた高座でした。

そしてふたたび小文吾くん。最近作った新作で、まだ高座にかけてまもないと聞いていたが、この噺の完成度がかなり高いのにまた驚く。また噺が進むにつれてゾーンに入っていくのがわかるぐらい、観客の笑いに呼応するかのように言葉を紡いでいく小文吾。
夢中になって走りきったところがゴールでした。小文吾、がんばった!やはりただものではなかった。

「オープニングトーク
「近日息子」小文吾
「たいこ腹」雛菊
「夢と魔法の国」獅鉄 ~中入り~
「紙入れ」源太
「マシマシラーメン」小文吾

そして今回出られなかった春楽くん、ここを見ていたらご報告。
開場1時間半前から待っていたご婦人が、開場したあとに

「春楽さん、でないんですか!!!???」
と絶叫、でないならと帰るって言って帰っていったの。
つまり、あなただけが目当てで見に来たの。
それだけは、忘れず、復帰を待っています。

 




「マサカリ村田」の思い出

60年間生きてきて、夢中になったものが三つあった。
最初はロッテオリオンズ
そしてプロレス。
そして落語

三つに共通することがある。40年前は確実に「少数派」だったこと。

昭和の時代からずっと、世間から「八百長」呼ばわりされていたプロレスというジャンル。過激なプロレスを旗印に、猪木がもがいてもがいてやっと今の隆盛がやってきた。

大学のサークルの中で、確実に女の子にもてない男たちが集まる、陰気で暗い、年寄りくさくて若者らしさがない、そう呼ばれていたのが朝ドラや映画などで日の目を見て、小さいながらもブームがやってきた落語。

そしてもう一つは、12球団のお荷物と言われながら、閑古鳥が鳴く狭くて汚い川崎球場で優勝なんて夢のまた夢の暗黒時代を経て、千葉に移転して12球団1と認められたファンに囲まれるようになったロッテオリオンズ千葉ロッテマリーンズ

私のかけがえのない青春の時期に、深く傾倒していたこの三つなのに。
円楽師匠が亡くなり、猪木さんが逝き、そして村田兆治さんまでが?

昭和49年10月23日。

王手をかけて中日球場に戻ってきた試合、小学校6年生だった私は学校の授業が終わって家まで20分かかるその時間が惜しくて、学校の前の定食屋さんに飛び込んだ。テレビには弱冠25歳の村田が躍動感あふれるマサカリ投法で中日打線を抑え込む姿があった。優勝が決まり、胴上げを見届けて家路に向かう時の幸せな気持ちは今でも覚えている。

昭和60年4月14日。

右ひじの手術、今でいうトミージョン手術を受け、1年余りのリハビリを終え、復活を期した本拠地での村田のマウンド。相手は西武。私は大学を卒業し、田舎に帰らず東京の会社に就職。この日の村田の登板を心より待ちわびて、一塁側の内野席にいた。
ジョーブ博士からは100球でマウンドを降りるように言われていたのに、155球を投げての完投勝利も、私はこの目で生で見ていた。あの年はあそこから11連勝で17勝5敗。私はあの試合のほか、4/28後楽園、5/5の川崎、5/19の川崎など、負けた試合を含めて7回生で見ていた。

平成2年10月13日。

最後の登板は、雨。確かその前の引退試合予定日も、雨で順延したと思う。
相手はまたしても西武。優勝が決まってもベストオーダーで臨んだ西武を5回までゼロに抑えると、味方打線は3回に愛甲がタイムリーの後、勝負を決めるディアズの3ラン。雨が激しくなったところでベンチから金田、森両監督が出てきて相談したかと思うと、審判に何事かつぶやく。コールドゲームで村田の10勝目、そして引退・・・。
この試合は、二年前に亡くなった弟と見に行ったことを昨日のように覚えている。

弱小ロッテのエースとして、ずっと君臨してきた村田投手。
そして節目の試合に必ず足を運ぶことができた偶然に感謝。

最後にこんな別れ方はものすごく不本意だけれど、ご冥福をお祈りするしかない。


私が夢中になった青春がまたひとつ、消えてしまった。

猪木さん~2

ある方に、10月のお通夜に出席する話を頂きました。
関係者のみしか参列できないお通夜に、とてもありがたい話でした。
でも、その日の3日前に、お断りの連絡を入れました。
自分が猪木さんを師と崇め、生活の全てがアントニオ猪木を中心に回っていた期間は、中学二年の三学期から、大学四年までのたった7年間。そのあと体力が衰えていく猪木さんから離れていった自分が、単なるコネクションでその場に入り込むことは、猪木さんにも関係者の方にも失礼になると思ったから。

考えてみれば、猪木さんは自分がいじめから立ち直るためにすがった、ある意味恩人。
親の見栄と、いじめに悩んでいた小学校時代をリセットし、全く新しい環境に身を置きたくなった自分の思いが合致して、学費の高さでは全国1.2を争うと言われていた東京の私立中学へ入った48年前。それでもなお寮生活になじめずにいた自分が、猪木の闘魂に感動し、体を鍛えることがいじめから逃れることのできる方策と思い、新日本プロレスの道場に通って体を鍛え始めたあの頃。世間から八百長だのショーだのと言われようと何だろうと、アントニオ猪木のプロレスは馬場のプロレスと違い本物を求めているんだ、そう信じてトレーニングを積んだあの頃。結果、町田のレスリング道場で今は亡き木口宣昭先生に出会えて、曲がりなりにもいじめに対抗できる「力」を身に着けることができたのは、猪木さんのおかげだった。木口さんからは、日大藤沢レスリングの特待生で入れてもらえる話まであったけれど、あの時その噺に乗っていたら、今はまったく違う人生だったに違いない。生まれ変わったら、その道にもう一度進んでみたい。
「この道を往けばどうなるものか、危ぶむなかれ」あの時私は、その道を往くことを危ぶんだのです‥‥。

それでもトレーニングのかいあって、私をいじめる人間はいなくなった。でもそれは私の「力」だけを怖れただけであって、その「力」におぼれた私は、人間的な成長がないままに大人になってしまった。その結果、波乱万丈を地で行く人生を歩むことになってしまったのでした。

 

「ショーリショー4」雑感

いろんなことがあった10月の最後の日曜日に、人間国宝と爆笑王は今日も仲睦まじく、タクシーで演芸場にやってきました。楽屋に入ってすぐ、松鯉先生は喫煙所でうまそうに煙草を一服。鯉昇師匠は、舞台の上でチラシの挟み込みをしている私のところへ歩み寄って、さっそく世間話。

「この夏、ちょっと体調を壊しましてね・・・」
「えっ??コロナ関係とかですか?」
「いやいや、夏バテですよ・・・私、トイレが近いんで水を飲まないで外へ出たりしていたら、脱水症状みたいな・・・意識が二回ほどなくなりまして」

それいつものマクラのネタじゃないんですか?と笑い合う、師匠はいつも気さくです。

「あの、ちょっといいですか??」
プログラムを食い入るように見つめていた松鯉先生に呼ばれる私。
「このプログラムのここ、『怪談噺や連続読みなど、ネタ数は150を優に超える』って書いてありますけどね、150じゃなくて、500ぐらいあるんです」打ち間違えました!と平身低頭、平謝りだったけど、150を優に超えて500という過大解釈は・・・通用しないですよね・・・先生、申し訳ありません!

「英会話」今いち
「犬の目」鯉昇 「男の花道」松鯉 中入り
「屏風の蘇生」松鯉 「佃祭」鯉昇

この日のいちばんの殊勲者は古今亭今いちさん。
実は何か月も前から聞いていたのだがなかなか前座さんが確保できませんでした。
ましてお二人のお弟子さんはもうほとんどが真打で、どうしようかと考えていたのですが、12月に円頓寺にお呼びする今いちさん、二つ目ではあるけれど12月の宣伝も兼ねてきてくれませんか?と頼んでみると、即答して下さったのです。

もちろん、二つ目さんに前座仕事なんてさせてはいけないのだけれど、今回困っていた時に救いの手を差し伸べて下さった今いちさん、開口一番で見事にお客様を温めて下さいました。必殺技の「サスペンダー着脱」で沸かせ、100kgの体重で踊る「奴さん」で大喜び。鯉昇師匠がすれ違いざまに「さすが、腕が違うね、二つ目さんは。あっためてくれて本当にやりやすいよ」とおっしゃっていたのが印象的でした。

その流れを引き継いで、松鯉先生は9月に浅草でかけられて前日も神保町で演じた「男の花道」をかけてくださり名古屋のお客様も大喜び。中入り後も講談と落語の見事な融合を見せて下さったお二人。終演後軽く一杯・・になったかどうかはご想像にお任せ。

中入りで、御自分の会とはいえ12月の音助さんとの会を客席で売って下さった今いちさんが、今日のムゲプラMVPでした。みなさん、ありがとうございました!

次回は令和5年、9月17日です!

 

【猪木さん】~その1

猪木さん。
ニュースとかで普通に言う時は「い」が高くて、「のきさん」が低い呼び方。
前に「アントニオ」をつけた時の呼び方もこっち。
でもその他に、レスラーや関係者の間で普通に使われていた呼び方があった。
「い」が低くて「のきさん」が高い。こう呼んでいると関係者になった気がして鼻が高かった。

その猪木さんが亡くなって、私がお付き合いさせて頂いている20代の若者たち、何人かから連絡をいただいた、「落ち込んでいませんか、大丈夫ですか‥‥。」

結論から言うと、落ち込んではいない。でも、亡くなった直後からテレビ、新聞、ネット、あらゆる媒体で猪木さんを取り上げているのを見て、なんか違和感を感じた。そのバイタリティーを絶賛する記事、女関係がどうの、議員時代の噂話などを面白おかしく取り上げる週刊誌。前日の夜に三遊亭円楽師匠が亡くなっているが、世間の反響は、いいことも悪いことも含めて猪木さんの時のほうが上。

もうすぐ一ヶ月だよ。一ヶ月経ってもまだネット記事がたくさん。

猪木さんって、こんなに日本中の人が、亡くなったことに反応するような方だったかしら。

 

45年前、猪木さんがアントニオ猪木選手だった時、世間は猪木選手に対してなんて言っていたのよ。「プロレスは八百長」この8文字を、何度猪木さんに、プロレス界に浴びせたんですか?

高校時代、私はアントニオ猪木を神様のように思い、朝起きる時も猪木のテーマで起き、その時の掛け声は、「うおおっっっっしゃあああああ!!!!」だったっけ。そんな私にさえも、世間のみなさんは白い目で見てたよね。「あんな八百長、なんでそんなに夢中になってんの???」

冗談じゃないね。今さら英雄扱いしないでほしいな。ちゃんとあの時のように、「八百長野郎」って言ってみろよ。「放送終了の8:50までにメインイベントは絶対終わるし」って言ってみろってんだよ・・・。

あの時代、「エンターテイメント」という言葉も、「ショー」という言葉も使われていなかった。世間の常識人を気取っていたやつらがただただ繰り返していた言葉は「八百長」だった。私はその言葉に、真っ向から何度も何度も反論していた。

八百長って何?勝敗に対して賭けが成立している、または負けることの対価で金銭を受け取る、そういうことでしょ。だったらプロレスは違うよ、賭けてない、お互いが観客を沸かせる、興奮させる試合を共同作業で行なう芸術だよ。だから八百長じゃない。勝敗はそんなに重要じゃないんだ」

高校生がどんなに唾を飛ばして力説しても、大人はうすら笑いを浮かべて冷たい視線を向けるだけ。そんなさげすまれた世界を一人でしょって立っていたのがアントニオ猪木であり、私の神様だった。

「じゃあ、おまえはあれを、みんな真剣勝負、だと思ってみてたの?ロープに振れば跳ね返ってくる、そこに足を出せば外人は勝手にぶつかって倒れてくれる。そんな試合を、真剣勝負だと思ってたの?」

そんな質問も数限りなく受けました。悔しかった。心のどこかで、真剣勝負じゃないこともうすうすわかっていた上で、神様がパッシングを受けているときに我々が守ってあげなくてどうするんだ、という感情が沸き上がり、それはもう、血眼になって猪木を、あ、猪木さんを、応援していた。でも、心の底で「誰にでもわかっちゃうような白々しさは抜いてほしい」とも思っていた。

特に全日本プロレス。猪木さんがプロレスに市民権を持たせようと悪戦苦闘していた裏で、馬場さんは来る日も来る日も16文、相手が勝手に飛んでくるプロレスをやっている。だから猪木さんも同じ穴のムジナだと思われている。それが高校時代の私にはがまんができなかった。

KING OF SPORTS。プロレスこそ、最強の格闘技。それを自分の中で真実にするために、私はレスリングジムに通い、スクワットを一日500回やり、来る日も来る日も体を鍛えた。強さこそ正義。それのみが私のアイデンティティーだった。なぜ?どうして?プロレスに、猪木に、そんなに夢中になれるの?とお思いですか。それは、そうしていなければ私は、病んでしまったかも知れなかったから。

亡くなってもうすぐひと月。自分にとっての猪木をブログに書くことに決めました。
たぶん長くなります。だからだらだらと書くかもしれません。落語関係のブログなのに脱線します。先に言っておきます。ご覧になって下さっている方々、ごめんなさい。

 

円楽師匠(後)~わずか半日で悲劇は免れた~

平成26年2月23日。立ち上げから11年後のこの日、当初の目標だった円楽師匠をお呼びすることができました。念願がかない、近隣で開催された公演の際、ご挨拶をさせていただいた時、楽屋に入るなりの第一声を私は今でも覚えています。

「おー、親不孝!じゃなくてばちあたり!とうとうこんな浮き草家業に足を踏み入れやがったな!」

その一言は、私が若気の至りでプロの前座に高座に上がり、迷惑をお掛けした30年前からの「落語好きの素人」の評価を師匠が覆し、この世界で生きる仲間として認めて下さった証でした。そこからは仕事の打ち合わせになり、「楽しみにしてるからよ」の一言を頂き、気合を入れなおして準備。いざ本番の日となりました。

私が落語の世界に仕事として入り込むきっかけとなった師匠を初めてお仕事としてお呼びする、私の緊張とは裏腹に、実はこの日の師匠の体調は最悪でした。
「喘息の気があってなあ、咳が止まらねえんだ」
そこに加えて東京駅でイベントがあったせいでタクシーを降りてから長い距離を歩き、岐阜へ着いたらタクシーが道に迷ってしまいほうほうの体で会場入り。時折横になって体を休めたりと、本番が心配になるほどの体調でした。考えてみれば、後年の肺がんの初期の症状がこの時から少しずつ出ていたのかもしれません。

それでも高座に上がる時にはそんな雰囲気はまったく見せず「アイツ、おもしれえな」膝代わりのバイオリン漫談のマグナムさんの高座に笑顔を見せていました。

そして本番、定番の笑点マクラのあと「ねずみ」。都合45分。緞帳が閉まった後も立ち上がることができずに若手に支えられながらさがってくると、師匠はソデで頭を下げる私に向かってニヤッと笑いました。あの笑いは私を認めてくれた証。

「お前の公演で、適当な高座はできねえからな」

そう言っているように私には思えました。帰りの車に乗り込む師匠に、「ありがとうございました!今度また、近いうちにお呼びしますね」というと師匠は、「期待しねえで待ってるからな」そう返してくれました。近いうち・・・そして再度お呼びすることができたのは今から二年前、コロナ真っただ中の岐阜県高山市公演。そしてこれが師匠と直接会話できた最後になるなんて、あの頃は想像もしていませんでした。

令和2年11月15日。ふゆがもうすぐそこまで来ている肌寒い高山駅の改札に、6年前よりさらにやせ細った姿で師匠は現れました。師匠は私を見るなり、「おお~元気か~」と手を振ってくださいました。

「この間、お盆に〇〇ちゃんのとこにお参りしてきた」ゲートボール大会のきっかけとなった旅館の旦那さんが亡くなった話を寂しそうにする師匠。
「で、お前のおやじさんはどうしてる」
「今は、夫婦で施設に入ってます」
「そうか、もう歳だからな、しょうがねえな」

本当はいつまでも、こうして昔話をしたくて仕方がなかったけれど、仕事に私情は挟めない。そう思いながらも「おい、親不孝・・・じゃなくて、ばちあたり!」と呼び止められることを期待して控室の前を行ったり来たりする私がいた。
でも、何回通っても師匠は控室で横になっていました。もう相当体が辛かったのでしょう。「もう俺は、芸人じゃなくて病人だからな」ここ数年来、何度もテレビとかで繰り返していたそのフレーズを、私の前でも言いながら、ゆっくりと体を起こして高座に向かう師匠。満員のお客様の前で演じたのは、あ・・・「いたりきたり」だ・・・

そして公演が終わり、私の車で駅に向かう。最後に交わした言葉はたった一言。
「じゃあな、またな」「お疲れ様でした」「・・・おう・・・」
あの時の力ない言葉、考えたくなかったけど、もう会えないような気はしていました。

師匠、最後の国立、よく頑張りましたね。もうこれでゆっくり休めますね。私はもう少し、この浮き草家業を続けます。また、あちらへ行ったら毒舌でいじめて下さいね。

芸人は、あらゆることを笑いに変えてこそ芸人。師匠はよくおっしゃっていました。
だから最後に、これだけは言いたかったことを言いますね、

師匠は最後まで、圓生襲名に意欲を燃やしていましたね。
その圓生師匠は、亡くなった日がパンダと同じだったために新聞の扱いがパンダに負けて小さくなった、それもネタにしていたことを覚えています。

でも師匠、圓生継がなくてよかったですよ。もし圓生継いでいたら、半日亡くなるのが遅くなったと思います。もしそうなったとしたら新聞の見出しが・・・・

アントニオ猪木、死去」・・・「圓生も」

心より、ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。

 





円楽師匠 (前)

その日、私は東京にいました。

二つ目の頃から応援している小辰改め扇橋師匠のお披露目公演を聴きに、鈴本にいました。ボリューム満点の番組で、かなり笑い疲れて中入り休憩。師匠が亡くなったのが19:01というので、中入り直後だったのでしょう。私にとって細々とではあっても噺家さんの中で一番お付き合いが長かった師匠がこの世を去ったことなどつゆ知らず、友人と落語談義をしてホテルへ戻ってから、玉川太福さんのツイートで知りました。

落語会の余韻が吹っ飛び、その夜はなかなか寝付かれず、師匠のことを思い出していました。

(これは、素人落語していた時に芸名に下さった師匠の色紙です)

初めてお会いしたのは今から34年前になります。
大学卒業後、他人の飯を食う経験をしたあと、62年11月から長野の田舎に帰って実家の旅館業を継ぎました。何もかも13年の都会暮らしと違う日々にようやく慣れた昭和63年7月。旅館組合最大のイベント、三遊亭楽太郎ゲートボール大会。楽太郎師匠と親しかった旅館のおやじさんが発案し、昭和60年から始まったこのイベントで、私は初めて「笑点の有名人」とお話しすることができました。

ただ、師匠の私に対する最初の印象はたぶん、最悪だったと思います。
というのは、私が東京にいるころ落語にはまり、本当の独学でいくつかネタを覚えていることを聞きつけた当時の父の仲間たちが、「おまえ、前座で出てみろよ」とたきつけ、まだプロの落語家さんとかかわったことがなかった私は、調子に乗って夜の落語会に前座として出たのです。〇〇亭 ばちあたり として。

かけたネタは「うそつき弥次郎」。大勢の人の前でやるのも初めて。カミシモも、所作も何もわからない25歳の私。当然覚えた噺を縮めることもできず、師匠の前で25分の恥をさらしました。「何も知らない素人が、しゃしゃり出てきやがって」たぶん師匠はそう思われたと思います。だってそれから4.5年、まともに口もきいてもらえませんでしたから。

それでも落語に詳しいということで、夏の若手落語会を旅館組合から任され、三遊亭楽大さん・好太郎さんなど圓楽一門の噺家さんと親しくなった、それが私が落語の世界に足を踏み入れるきっかけでした。最初に知り合った楽大さん、今の伊集院光さんですが、彼がおさげの女の子が大好き、と飲み会で言っていたことを今でも覚えています。

師匠は、ゲートボールの翌日はうちの父や他の旅館の旦那衆と必ずゴルフに行ってましたから、私より父と話をしていましたが、私が旅館を飛び出してから、ゲートボールのたびに父に、「ばちあたりな息子はどうしてる?」と心配してくれていたんだと、後から聞いてとても感激したことも覚えています。

また、師匠は天龍源一郎さんと同級生だったこともあり、馬場さんの全日本プロレスには深い付き合いがありました。でも私は新日本プロレス~UWF~リングス派だったので、これまたプロレスの話はできませんでした。でもゲートボールの打ち上げの席で、「全日だって新日だってかわらねえよ。どっちもプロレスなんだよ」と言われたことだけは思えています。

そんなわけで、師匠と深く話をしたことはほとんどないまま時が過ぎて行ったのですが、平成15年に落語プロデュースを正式に生業とするようになった時、ひとつの目標をたてました。信用が付き、きちんとした出演料が払えるようなオフィスになれたら、絶対に円楽師匠をお呼びしたい、そう考えたのです。そしてその日がいよいよ来たのはそれから11年後の平成26年のことでした。~つづく