その日、私は東京にいました。
二つ目の頃から応援している小辰改め扇橋師匠のお披露目公演を聴きに、鈴本にいました。ボリューム満点の番組で、かなり笑い疲れて中入り休憩。師匠が亡くなったのが19:01というので、中入り直後だったのでしょう。私にとって細々とではあっても噺家さんの中で一番お付き合いが長かった師匠がこの世を去ったことなどつゆ知らず、友人と落語談義をしてホテルへ戻ってから、玉川太福さんのツイートで知りました。
落語会の余韻が吹っ飛び、その夜はなかなか寝付かれず、師匠のことを思い出していました。
(これは、素人落語していた時に芸名に下さった師匠の色紙です)
初めてお会いしたのは今から34年前になります。
大学卒業後、他人の飯を食う経験をしたあと、62年11月から長野の田舎に帰って実家の旅館業を継ぎました。何もかも13年の都会暮らしと違う日々にようやく慣れた昭和63年7月。旅館組合最大のイベント、三遊亭楽太郎ゲートボール大会。楽太郎師匠と親しかった旅館のおやじさんが発案し、昭和60年から始まったこのイベントで、私は初めて「笑点の有名人」とお話しすることができました。
ただ、師匠の私に対する最初の印象はたぶん、最悪だったと思います。
というのは、私が東京にいるころ落語にはまり、本当の独学でいくつかネタを覚えていることを聞きつけた当時の父の仲間たちが、「おまえ、前座で出てみろよ」とたきつけ、まだプロの落語家さんとかかわったことがなかった私は、調子に乗って夜の落語会に前座として出たのです。〇〇亭 ばちあたり として。
かけたネタは「うそつき弥次郎」。大勢の人の前でやるのも初めて。カミシモも、所作も何もわからない25歳の私。当然覚えた噺を縮めることもできず、師匠の前で25分の恥をさらしました。「何も知らない素人が、しゃしゃり出てきやがって」たぶん師匠はそう思われたと思います。だってそれから4.5年、まともに口もきいてもらえませんでしたから。
それでも落語に詳しいということで、夏の若手落語会を旅館組合から任され、三遊亭楽大さん・好太郎さんなど圓楽一門の噺家さんと親しくなった、それが私が落語の世界に足を踏み入れるきっかけでした。最初に知り合った楽大さん、今の伊集院光さんですが、彼がおさげの女の子が大好き、と飲み会で言っていたことを今でも覚えています。
師匠は、ゲートボールの翌日はうちの父や他の旅館の旦那衆と必ずゴルフに行ってましたから、私より父と話をしていましたが、私が旅館を飛び出してから、ゲートボールのたびに父に、「ばちあたりな息子はどうしてる?」と心配してくれていたんだと、後から聞いてとても感激したことも覚えています。
また、師匠は天龍源一郎さんと同級生だったこともあり、馬場さんの全日本プロレスには深い付き合いがありました。でも私は新日本プロレス~UWF~リングス派だったので、これまたプロレスの話はできませんでした。でもゲートボールの打ち上げの席で、「全日だって新日だってかわらねえよ。どっちもプロレスなんだよ」と言われたことだけは思えています。
そんなわけで、師匠と深く話をしたことはほとんどないまま時が過ぎて行ったのですが、平成15年に落語プロデュースを正式に生業とするようになった時、ひとつの目標をたてました。信用が付き、きちんとした出演料が払えるようなオフィスになれたら、絶対に円楽師匠をお呼びしたい、そう考えたのです。そしてその日がいよいよ来たのはそれから11年後の平成26年のことでした。~つづく