MUGEプランニングのたまさかブログ

東海・中部地区で落語公演を開催しているオフィスのブログ

円楽師匠(後)~わずか半日で悲劇は免れた~

平成26年2月23日。立ち上げから11年後のこの日、当初の目標だった円楽師匠をお呼びすることができました。念願がかない、近隣で開催された公演の際、ご挨拶をさせていただいた時、楽屋に入るなりの第一声を私は今でも覚えています。

「おー、親不孝!じゃなくてばちあたり!とうとうこんな浮き草家業に足を踏み入れやがったな!」

その一言は、私が若気の至りでプロの前座に高座に上がり、迷惑をお掛けした30年前からの「落語好きの素人」の評価を師匠が覆し、この世界で生きる仲間として認めて下さった証でした。そこからは仕事の打ち合わせになり、「楽しみにしてるからよ」の一言を頂き、気合を入れなおして準備。いざ本番の日となりました。

私が落語の世界に仕事として入り込むきっかけとなった師匠を初めてお仕事としてお呼びする、私の緊張とは裏腹に、実はこの日の師匠の体調は最悪でした。
「喘息の気があってなあ、咳が止まらねえんだ」
そこに加えて東京駅でイベントがあったせいでタクシーを降りてから長い距離を歩き、岐阜へ着いたらタクシーが道に迷ってしまいほうほうの体で会場入り。時折横になって体を休めたりと、本番が心配になるほどの体調でした。考えてみれば、後年の肺がんの初期の症状がこの時から少しずつ出ていたのかもしれません。

それでも高座に上がる時にはそんな雰囲気はまったく見せず「アイツ、おもしれえな」膝代わりのバイオリン漫談のマグナムさんの高座に笑顔を見せていました。

そして本番、定番の笑点マクラのあと「ねずみ」。都合45分。緞帳が閉まった後も立ち上がることができずに若手に支えられながらさがってくると、師匠はソデで頭を下げる私に向かってニヤッと笑いました。あの笑いは私を認めてくれた証。

「お前の公演で、適当な高座はできねえからな」

そう言っているように私には思えました。帰りの車に乗り込む師匠に、「ありがとうございました!今度また、近いうちにお呼びしますね」というと師匠は、「期待しねえで待ってるからな」そう返してくれました。近いうち・・・そして再度お呼びすることができたのは今から二年前、コロナ真っただ中の岐阜県高山市公演。そしてこれが師匠と直接会話できた最後になるなんて、あの頃は想像もしていませんでした。

令和2年11月15日。ふゆがもうすぐそこまで来ている肌寒い高山駅の改札に、6年前よりさらにやせ細った姿で師匠は現れました。師匠は私を見るなり、「おお~元気か~」と手を振ってくださいました。

「この間、お盆に〇〇ちゃんのとこにお参りしてきた」ゲートボール大会のきっかけとなった旅館の旦那さんが亡くなった話を寂しそうにする師匠。
「で、お前のおやじさんはどうしてる」
「今は、夫婦で施設に入ってます」
「そうか、もう歳だからな、しょうがねえな」

本当はいつまでも、こうして昔話をしたくて仕方がなかったけれど、仕事に私情は挟めない。そう思いながらも「おい、親不孝・・・じゃなくて、ばちあたり!」と呼び止められることを期待して控室の前を行ったり来たりする私がいた。
でも、何回通っても師匠は控室で横になっていました。もう相当体が辛かったのでしょう。「もう俺は、芸人じゃなくて病人だからな」ここ数年来、何度もテレビとかで繰り返していたそのフレーズを、私の前でも言いながら、ゆっくりと体を起こして高座に向かう師匠。満員のお客様の前で演じたのは、あ・・・「いたりきたり」だ・・・

そして公演が終わり、私の車で駅に向かう。最後に交わした言葉はたった一言。
「じゃあな、またな」「お疲れ様でした」「・・・おう・・・」
あの時の力ない言葉、考えたくなかったけど、もう会えないような気はしていました。

師匠、最後の国立、よく頑張りましたね。もうこれでゆっくり休めますね。私はもう少し、この浮き草家業を続けます。また、あちらへ行ったら毒舌でいじめて下さいね。

芸人は、あらゆることを笑いに変えてこそ芸人。師匠はよくおっしゃっていました。
だから最後に、これだけは言いたかったことを言いますね、

師匠は最後まで、圓生襲名に意欲を燃やしていましたね。
その圓生師匠は、亡くなった日がパンダと同じだったために新聞の扱いがパンダに負けて小さくなった、それもネタにしていたことを覚えています。

でも師匠、圓生継がなくてよかったですよ。もし圓生継いでいたら、半日亡くなるのが遅くなったと思います。もしそうなったとしたら新聞の見出しが・・・・

アントニオ猪木、死去」・・・「圓生も」

心より、ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。