MUGEプランニングのたまさかブログ

東海・中部地区で落語公演を開催しているオフィスのブログ

「マサカリ村田」の思い出

60年間生きてきて、夢中になったものが三つあった。
最初はロッテオリオンズ
そしてプロレス。
そして落語

三つに共通することがある。40年前は確実に「少数派」だったこと。

昭和の時代からずっと、世間から「八百長」呼ばわりされていたプロレスというジャンル。過激なプロレスを旗印に、猪木がもがいてもがいてやっと今の隆盛がやってきた。

大学のサークルの中で、確実に女の子にもてない男たちが集まる、陰気で暗い、年寄りくさくて若者らしさがない、そう呼ばれていたのが朝ドラや映画などで日の目を見て、小さいながらもブームがやってきた落語。

そしてもう一つは、12球団のお荷物と言われながら、閑古鳥が鳴く狭くて汚い川崎球場で優勝なんて夢のまた夢の暗黒時代を経て、千葉に移転して12球団1と認められたファンに囲まれるようになったロッテオリオンズ千葉ロッテマリーンズ

私のかけがえのない青春の時期に、深く傾倒していたこの三つなのに。
円楽師匠が亡くなり、猪木さんが逝き、そして村田兆治さんまでが?

昭和49年10月23日。

王手をかけて中日球場に戻ってきた試合、小学校6年生だった私は学校の授業が終わって家まで20分かかるその時間が惜しくて、学校の前の定食屋さんに飛び込んだ。テレビには弱冠25歳の村田が躍動感あふれるマサカリ投法で中日打線を抑え込む姿があった。優勝が決まり、胴上げを見届けて家路に向かう時の幸せな気持ちは今でも覚えている。

昭和60年4月14日。

右ひじの手術、今でいうトミージョン手術を受け、1年余りのリハビリを終え、復活を期した本拠地での村田のマウンド。相手は西武。私は大学を卒業し、田舎に帰らず東京の会社に就職。この日の村田の登板を心より待ちわびて、一塁側の内野席にいた。
ジョーブ博士からは100球でマウンドを降りるように言われていたのに、155球を投げての完投勝利も、私はこの目で生で見ていた。あの年はあそこから11連勝で17勝5敗。私はあの試合のほか、4/28後楽園、5/5の川崎、5/19の川崎など、負けた試合を含めて7回生で見ていた。

平成2年10月13日。

最後の登板は、雨。確かその前の引退試合予定日も、雨で順延したと思う。
相手はまたしても西武。優勝が決まってもベストオーダーで臨んだ西武を5回までゼロに抑えると、味方打線は3回に愛甲がタイムリーの後、勝負を決めるディアズの3ラン。雨が激しくなったところでベンチから金田、森両監督が出てきて相談したかと思うと、審判に何事かつぶやく。コールドゲームで村田の10勝目、そして引退・・・。
この試合は、二年前に亡くなった弟と見に行ったことを昨日のように覚えている。

弱小ロッテのエースとして、ずっと君臨してきた村田投手。
そして節目の試合に必ず足を運ぶことができた偶然に感謝。

最後にこんな別れ方はものすごく不本意だけれど、ご冥福をお祈りするしかない。


私が夢中になった青春がまたひとつ、消えてしまった。