MUGEプランニングのたまさかブログ

東海・中部地区で落語公演を開催しているオフィスのブログ

「伝統芸能と大衆芸能」~オースのジョー11終演

18日大須、23日長野、24日大須の怒涛の公演ラッシュが終わりました。
お越し頂いたお客様にはただただ感謝いたします。ありがとうございました。

先日のブログにも書いた、「おぼろげながら見えてきたこと」とは、落語協会落語芸術協会の違いのことでした。以前から、決定的に違うのですが具体的に何が違うのかを明確に言えなくてもやもやしていたのですが、18日と24日、柳家喬太郎、入船亭扇辰、古今亭菊之丞の三人の大看板の芸を目の当たりにしてやっと、そのもやもやがはっきりした形で見えてきました。

落語の発祥と言われる徳川五代将軍綱吉の時代(元禄年間)から300年の時を経て、時代に沿うように落語はその姿を幾度も変えてきましたが、基本的に言われているのは江戸落語は座敷で行なわれてきた歴史があるということです。そしてその歴史の積み重ねの結果、何も持たない、しぐさだけで座ったまま物を表現することのできる世界で唯一の「落語」の形ができてきました。大げさに言えば、座布団の上だけで、先人から伝わった噺をその形を崩さずに観客をその世界にいざなうことができるものだけが「名人」と呼ばれるようになったということで、道具を使うとか、過度に客いじりをするとか、そのような行為は慎むべきものとして弟子に伝えられて現在に至っているということができましょう。

閑話休題
18日の喬太郎師匠と扇辰師匠。24日の菊之丞師匠に共通して感じたことは、「古典落語の幹を壊さず、味付けだけを変える工夫のうまさが突出している、ということです。
逆に師匠から習ったそのままを演じるいわゆる「本寸法」の落語家さんも多数存在しますが、幹を崩さないことはつまり、落語協会の落語家さんの中に綿々と受け継がれてきている噺家の矜持、のようなものと言えるのではないでしょうか。

それに対比して、落語芸術協会噺家さんにはその意識はそんなに感じません。
今を時めく「成金」メンバーをはじめとして、人気の若手が引っ張る形である意味斬新な企画や連動性をもたせた寄席の流れなど、今までにない形の落語が生まれつつある気がします。

一例としては、前の噺に出てきた定吉が次の噺にも出てきて、前からの笑いを再び呼び起こさせるとか、そでにいる仲間の悪口を言うとステテコ姿でその落語家さんが出てきて茶化すなど、ひとりの力量だけでなく、みんなで寄席を盛り上げよう、笑いを増幅させようと考える、いわゆる「ファンサービス」に長けている、と言っていいかもしれません。

落語協会噺家さんは、このやり方は取りません。たぶん心のどこかに「噺家は個人商売。ひとりひとりの芸こそが判断基準」という思想が根付いているのだと思います。
どちらがいいか悪いかではなく、落語協会は「様式美」を重んじ、伝統芸能としての歴史を守る、芸術協会は既成概念を取り払っていく「変革」を進める「大衆芸能」としての落語を確立する。またファンのほうも、「あくまで落語そのものをじっくり聞く」ことを望めば前者、「下げなども変えて、新しい落語の解釈を作り出すことを許容する派」は後者と、聴きに行く場を選択できる、これもまた落語の懐の広いところではないでしょうか。

そしてその両極端の協会のどちらも楽しめる寄席作り、それを名古屋でしていこうというのが当社のコンセプトです。これからもぜひ、大須演芸場ほかで繰り広げられるムゲプラワールドをぜひお楽しみください。

令和4年 4月24日(日)14:00
「オースのジョー11」 大須演芸場
「寄合酒」 まめ菊
「寝床」 菊之丞 ~中入り~
「奇術」 ダーク広和
「らくだ」菊之丞